朱と青紅葉(奈良の記憶❷-Interlude)
料金を払い、お礼を言ってタクシーを降りると、自販機とトイレが目の前にあった。
奈良に到着してからというもの、ただここへ来ることだけを考えて慌てて電車にタクシーに飛び乗って来たので、トイレに寄って少し落ち着いてからお詣りしようと奥の個室へ入る。
見たところ公園のトイレのような造りだし、夏の蒸し暑い盛りだったから覚悟して入ったものの、緑に囲まれているからなのかコンクリートの壁はヒンヤリして涼しかった。
ありえないほど大きくて真っ黒なクモの出現に声にならない叫びを上げた以外には、何の問題もなかった。(ルドンの「蜘蛛」を想像していただければわかるだろう。)
トイレを出て拝観料を支払い、手水場で身をきよめると、夏にしては少し涼しい風がふわっと吹き抜けた。
山の緑がひときわ濃く揺れ、香った。
画像:オディロン・ルドン「蜘蛛」
朱と青紅葉(奈良の記憶❷-ⅰ)
雲行きがあやしい。
京都に着いた時は薄陽が射していたのに、奈良に降り立つと空が真っ暗だった。
とにかくお腹が空いていたし、どのみち雨なら今日と明日のスケジュールでもゆっくり組み直そうと、旧奈良駅舎のスタバへ入る。
サンドイッチをあたためてもらっているあいだ、紅茶片手に席について案内所の液晶に流れる天気予報を見た。
やはり予想よりも早く雨が降り出すらしい。
運んでもらったサンドイッチをかじりながら、メインの談山神社を明日に回そうか考え、乗継案内を開いた。
なんと快速電車が10分後に出発するらしい。
バスの時間もあって一時間後の快速に乗る予定だったが「今行けば雨に間に合う!」という根拠のない自信と「今こそタクシーを使うとき!」という謎の太っ腹根性が、突如湧いた。
あわててサンドイッチを包んでもらい、ドリンクごと手に持ったまま店を出、階段を駆け上がったり駆け下りたりしながら快速の電車へ滑り込んだ。
夏のテスト期間だろうか。
ところどころで地元の高校生たちが乗車してくるほかは、下り電車のせいもあってかあまり人が乗らない路線らしい。
ただ古代の日本に想いを馳せすぎて、車窓を流れる景色にいちいち感動し、纏向遺跡がある「巻向」・大神神社がある「三輪」で感極まっていちいち涙ぐむ始末だったので、人が少なくて本当にホッとした。
こんな天気でなければ途中下車し、纏向遺跡周辺や大神神社も訪ねるつもりだったが、今日のメインはとにかく談山神社と決めていたから強い心(?)で下車を思いとどまった。
桜井に着くとなんと薄陽が射していた。
途中駅で何度もポツポツきたのを見て、なかば諦めかけていたから俄然テンションがあがってしまい、駅舎から出る階段の最後の一段を盛大に踏み外した。
乗り込んだタクシーの運転手さんに行き先を告げると
「秋の紅葉が有名な神社なのに、こんな真夏によく訪ねるね」
と、驚かれてしまった。
JR東海の「いま、ふたたびの奈良へ」シリーズで、談山神社の「青紅葉」がPRされていることを伝えると納得されたようで、遠方から訪ねてくる人のほうが由緒とか建築様式に詳しいから、と笑っていた。
駅周辺を抜け、登り坂が始まる。
いかにもな山道に突入すると、景色も民家や畑がまばらになってゆき、何度目かのカーブでついに「多武峰」の標示が現れた。
雨音と鹿(奈良の記憶❶)
目がさめると、まだ朝食も始まらないほど早い時間だった。
基本的に寝ているとき以外はねむたい性分なので、しばらく布団にくるまったまま目蕩んでいたが、やわらかな雨音に誘われて起き出し、窓辺に寄った。
建てられた当時のままの木枠の硝子窓を上げ、近年はめ込まれただろう金属製の片開き窓のレバーを回すと、一瞬やや強い風が吹きこみ、夏の早朝独特の濃い緑の香りが立った。
向こうに見える若草山の雨に濡れる様子はきっと古の朝と同じで、その頃の誰かも同じ景色を見たのだろう思うと心が躍ってしょうがなかった。
──あとでそこまで歩いてみよう。
躍る心にまかせてそんな予定を立て(結構な雨なのに)、身支度にとりかかるため窓辺から離れようとした時だった。
視界の端を、茶色の背中がゆっくりと移動していくのが見えた。
慌てて視線を戻し、窓枠から身を乗り出して下を覗きこむ。
数頭の鹿たちだった。
ホテルの敷地内でもかまわず、仔鹿たちを促しながらそれでもゆったり歩くさまは、悠久の奈良の時の流れそのものに思えた。
ひとしきり動画を撮り、ふと時計を見ると朝食が始まるころだった。
やっと窓辺から離れ、身支度のためバスルームへ向かった。
寝ても寝ても目が覚めない
歩いていても、パソコンと向き合っていても、上司に話しかけられていても眠いとにかく眠い。
電話を取っても、昼休憩に入っても眠い。
永遠に眠い。
恥ずかしがらずにかじりつく。
顔より大きいピザのピースが2つ運ばれて来たときにはぎょっとした。
食べてみると、クリスピーでおいしい。
とにかくジャンクな味、しかし結局2ピース食べ切ってももたれなかったのは素材の良さだろう。
炭酸のきいたピンクレモネードとピザと、ファストフードのおしゃれが極まったランチだった。
音も吸い込んでしまうほどの
帰り道、街灯のまわりにチラつく雪がきれいと見つけては写真を撮り、
まっさらな駐車場を見つけては足跡をつけ、
そんなことをして歩いていたら最寄りの駅から家まで1時間以上かかってしまった。
シン、とした世界でひとり、遠慮なくシャッター音を響かせ、膝下まで積もった雪を蹴散らす。
誰にも見られていませんように!